■ 蛸
軽便鉄道の連なった滑車の一番先頭、山と積まれた藁の上に座って、握り飯を食う。その内に列車は停車場に行き着き、平蔵は握り飯を手に掴んだままそこで降りた。 握り飯を食いつ歩きつ辺りを見回してみる、しかしどこを向いても見えるのは鬱蒼と茂る木と線路ぐらいである。仕様も無いので、傍にいる車掌らしき男に訊いてみた、車掌といっても首から手拭を掛けた山出し見た風体の男ではあるが――。 「少しお尋ねしますが、蛸峰ヶ丘(たこみねがおか)というのはここの事でしょうか?」 「いかにも」と、成に似合わぬ物言いである、しかも一向平蔵の方を見ようとしない。 「では、蛸巻(たこまき)町へはどうやって行けば良いでしょう?」 平蔵がそう訊いてから、漸く男はこちらへ顔を向け、停車場の端から始まっている雑木林へと入っていく道を指差した。 「あの道を歩いて20分」そう云ったぎり、男は腕を下ろして、顔を背けた。頗る索然とした態度である。平蔵も、はあそうですか、ありがとう、と礼だけ云って、男に背を向けた。 平蔵は東京生まれで今まであまり東京を出た事が無い。故に地方に赴きその土地の人間と会う機会も少ないのだが、今さっきの男を見るかぎり、かくも蛸峰ヶ丘に住む者というのは無愛想な者ばかりかと懸念した。しかし今の男は確かに地方の人間ではあるが、果たしてあれは列車の車掌にすぎず蛸峰ヶ丘に住む者とも限らぬと思ったので、気にせず残りの握り飯にぱくついて雑木林の道に向かう。 雑木林の道を抜けると急に下り坂に差し掛かり、眼下に広がる蛸巻町の町並み全体と、その向こうに見える渺茫たる大海を目の当たりにした。まさしく絶景である。平蔵は早速この町が好きになった。
◇
30分徒歩を続けて、漸く峰を下って蛸巻町へと入った、軽便鉄道の男の目測とは10分ばかり違っていた事になる。 蛸巻町のある某市はこの県の県庁所在地だけあって、田舎とはいえ中々大きな町である、国鉄も走っているので本来ならばそちらを使って来るべきところだが、どういう訳か切符を取り損なってしまったので、取り急ぎ用のある平蔵は仕方なく軽便鉄道などを使いこの町に辿り着いた。取り急ぎの用とは、東京から送った今日届くはずの荷物に関する事なのだが、――とにかく、平蔵は逡巡する暇を惜しんで地図を開き、御厄介になる先生の家を探す事にする。しかし、平蔵は書生としてその先生の御厄介になる訳だが、未だその先生と会った事が無いので顔も知らなければ、どのような御人なのかも知らないので少々不安な心持である。 目的の場所に着くと、先生は散歩に出て留守なので勝手に上がって待っていろという旨を下女から聞いた。平蔵は挨拶も草草に早速自室に上がって荷物を確認しに行く。 万事ちゃんと届いていた、何も不備は無い。――と安堵した矢先、 「しまった」平蔵は部屋を飛び出し下女を引っ捕まえて「金魚を手に入れたいのですが、何処で売ってますか?」と訊いた。どうやら平蔵は金魚を用意しておく事を失念していたようだ。 下女はキチガイ見た様な平蔵の言動に驚きつつも、金魚の売ってる店を教えてくれた。 ――金魚屋、というのは四隣の車屋の事だった、ここの孫六という男が、祭りの時に出す金魚を卸している、といっても裏の池から掬って貯めているだけなのだが、そういう事であっさり10匹ほどの金魚を無事手に入れる事が出来た。改めて考えるとそれほど急を要する必要も無かったか知らんと思えて、先程の体たらくを思い起こすと甚だ恥辱であり、早急に釈明せざるを得ん事態である。 そうして急ぎ戻ってみると、散歩から帰っていた主人が奥の書斎からぬっと姿を現したところで、藪睨み且つ懐手の体でもって、懐疑の眼を平蔵に向けていた。平蔵はここで初めて自分が世話になる家の主人と対面する。 「金魚はあったかね?」と、主人は冷淡に訊いた。 「はい、ここに」 平蔵は抱えた桶を一寸上げて、俯いたまま答えた。 「そりゃけっこう、それで、その金魚が長旅の疲れをものともせず吶喊して所望たらしめる所以を教えてくれ給え」 「はあ、申し訳ありません。何より生命に関わる事でしたので…」 「生命?――まぁ、よかろう、立って話していても埒があかぬ、君、書斎へ上がり給え」そう云うと主人は奥の書斎へと姿を消した。 平蔵は恐縮しきる事蛸の釜茹でのごとく、真っ赤な顔をして俯いたまま玄関に上がり、下女が訝しげに眺めるのを尻目に、桶を抱えてふらふらと書斎へ入っていった。 「失礼します」と云ってから平蔵は書斎の襖を開けた。 中に入ると八畳ほどの広い部屋で、正面奥に窓がありその他の壁は本で埋まっていた。 「ここに座り給え」と云って主人は座布団をひいた。 「はい」そこへ平蔵は正座する。 「君はたしか、溝口君のところの生徒だったね?」 「はい、そうです」 「しかし、なんでまた、こんな田舎に転学しようという気になったのかね?」 平蔵は主人に説教を受けるのかと震えていたのだが、どうやら話頭が転じつつある、そういえばまだ挨拶も済ませていなかった。 「私は、東京の大学で生物学を専攻していましたが、この度、蛸巻町の蛸屋茂吉先生の御功名をお聞きしまして、是非とも門弟に加えていただくべく…」と、平蔵はこの調子で上手くやってどうにか金魚の件を避けれはせぬか、と思案しつつ質問に答えるのだが、答え終わらぬ内に「うん、そうか」と蛸屋先生が云ったぎり話が終わってしまった。 平蔵はいよいよ身構えた。しかし蛸屋先生は沈黙して、顔を少し俯き気味にうんうん頷いている、一向要領を得ない。それから突然にやりと口角を上げて、髭を撫でつつ平蔵を正面から見て、 「蛸、かね?」と聞いた。平蔵は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに姿勢を正して眼を大きく見開くと、にやりと笑って、 「蛸、です」と単簡に答えた。蛸屋先生は大いに笑って「よろしい」と云った。 「それじゃあ、金魚というのは、ありゃ餌かね?」 平蔵は「はい」と答えてくすくすと笑った。しかし内心は頗る安心している。 「ふむ、うちのは貝なんぞを食べるんだが…、君の蛸は金魚かあ」と蛸屋先生が興味深げに呟いたのを聞いて、平蔵は毫も先程の落胆を忘れてしまったとばかりに聞き返す、 「やはり先生も蛸を御飼いでいらっしゃいますか?」 「うん、飼っとる。――見てみるかね?」 「是非」 蛸屋先生は立ちあがると、「うちのは日光が嫌いなんでね、ちと失礼」と云って振り向いて雨戸を閉てた。書斎部屋が薄ぼんやりとした闇に包まれる。そうしておいて、机の上に乗った暗幕の掛かった大きな箱の前に屈むと「こっちへ」と平蔵を省みて云った。 平蔵は中腰のまま前に進んで、暗幕の中を覗き見た。中には両手ほどの大きな水槽があり、ひたひたと水が満たしてあった。それ以外には暗くて何も見えない。 「どうだ、見えるかい」 「いえ、一向真っ暗で何も見えません」 「では、こうしよう」と云って、蛸屋先生は水槽の中に手を突っ込んで丸い壷を取り出すと、壷の後をとんとんと手の平で叩いた。すると中からどろっとした液体だか固体だか判然とせぬ物体がすべり落ちてきて、ぽちゃりという音と共に水面の水を跳ねた。 途端に水槽の中にきらきらと光るものが浮遊している姿が平蔵の目に映る。暗闇の中にぼんやりと光る粒がうねうねと回転している、それはまさしく蛸の姿だった。光る蛸。 「どうかね?」と蛸屋先生が頭上から尋ねるが、すでに平蔵の驚く顔を見て頗る上機嫌である。 「これは、すごい」 「さよう」と云って蛸屋先生は相好を崩した。 「まるで宇宙の銀河見た様な…」 「ほう、いかにも君は詩客見た様な事を言うねえ、もしくは生物学よりもそちらに才があるやもしれん」 平蔵は照れ臭くなって、漸く水槽から顔をはずした。 「これは何と云う種目の蛸なのですか?」 「うん、ファイヤオクトパスと云う、日本名にするなら灯蛸かな」 「外国の蛸なのですか?」 「阿弗利加の蛸だそうだ」 「へえ」と云って平蔵はまた水槽の方に顔を向けて、「実に素晴らしい」と云った。
◇
それから平蔵は蛸屋先生に昼を食べに誘われて蕎麦屋へ入った。蕎麦を食べながら、東京の大学の事や、平蔵が東京に居た時分の話をする。その内に話頭は生物学の話になり、終いには蛸屋先生による蛸談義が始まった。 蛸というのは外国ではデヴィルと言われて忌み嫌わている、蛸を食する文化を持つ国もなかなか無い、故に蛸学というのは世界的に見ても未だ人跡未踏の学問である。斯様に日本国では古来より蛸を食する文化が発達しており、蛸の酢漬け、蛸の刺身、蛸の握り、ひいては輓近明石焼きなる蛸食文化の大発明もあった、もはや日本国は蛸食文化の点でもって世界を代表するに至らしめる地位を持った事を誇りに思わねばならない。いわんや蛸学を研究する者にとっては僥倖の至りをやである。同時に日本国民はその蛸食文化を世界に流布すべき権利を有するの事態となった訳だから、我々蛸学に殉ずる者はより一層の研究に励み、蛸学の謎を早急に解明し広く国民にその講義を知らしめん事を使命と思わなければならない。 蛸屋先生の蛸談義とはこの様な内容だった、途中からは談義というよりも説法に近かった。それでも蛸屋先生はよほど蛸が好きと見えて、まだまだ蛸談義を続けるつもりである。しかし平蔵は嫌ではない、実は平蔵も東京に居た時分、もしかしたら自分より蛸が好きな人間は居ないんじゃないか知らん、と思った事があるくらい蛸好きなのである。むしろ蛸屋先生の様な人を見ると、同士を得たとばかりに、いつまでも蛸の話をしても構わない、そもそもこの蛸巻町に来たのもそれを成し得んが為のつもりである。 蛸屋先生は蕎麦を食べ終わり、しばらく煙草を呑みながら鷹揚に構えて煙を燻らせている。それから吸殻をもみ消して平蔵の方を見ると早速蛸談義の続きをやる、 「君、蛸というものを翻訳してみた事はあるかね?」 「はあ、蛸をですか?」 「そう、蛸を翻訳して、その意味するところを解明しようと、ね。私はどうやら蛸という生き物に憑かれてしまってる様でね、ではなぜ憑かれてしまうのかと、そういう自問さね」 「それで蛸というものが意味する事とは何なんでしょうか?」 「うん、畢竟蛸というものが意味するところは、淫だ」と云って先生は茶をすすってから、 「淫というのは、つまり淫らな妄想を意味する。思うに世界は総てこの淫に支配されているのではなかろうか、と最近思う様になった」と沈吟する様に云った。そうして蛸屋先生の弁説が始まる。 まず、心理学として、総て個人の性質とは幼少期の性的衝動に由来していると聞く。そうして芸術というものにおいても、女性の裸体であったり、陰茎を思わせる様なものや、躍動する肉体美だとか、淫なるものを起源にその品隲を問うてる様に思う。文学においては鬱屈して混沌とした自らの満たされない性欲や様々な欲望を、かりそめの登場人物に窶して妄想にふける装置の様なものでは無いだろうか。人は皆それぞれ、鬱屈して混沌とした性欲や様々な欲望が混ざった闇を抱えて生きている、そしてそれを発散させるべく消光して、けして満たされないまま死んで行く。さらにその死にも淫は起因している、死を連想させるものには必ず淫なるものが司っている様に思う。しかし私はそれで正しいと思う、闇は闇として淫なるものを甘受して生きていけば良い。 「だから私は蛸が好きなのだ、蛸の象徴する淫なる闇が蛸という生き物の滑稽な姿から、至極朗らかなものとして自分の中で位置付けられて居るから、闇を目の当たりにして動じない勇気を得た様な癒しの境地に入る事ができる」と蛸屋先生は最後にやっと蛸に戻って、その弁説を終えた。 平蔵は蛸屋先生の話を聞いた後ある違和感を感じていた、しかしその違和感が何であるのか、考えてみようとするが、それは言葉になる前に霧の様に消えてしまう。そして、消えずに残ったかすの様な物を集めて換言するなら、――あるいは、闇があるなら対極として光もあるはず、というものだった。平蔵は考えるのを止した。 ◇
蕎麦屋を出て家に帰ると、門の所に女が立っていた。 その女は蛸屋先生を見ると丁寧に御辞儀をして「こんにちは」と云った。どこと無く幼い声である。そして頗る美人であった。蛸屋先生は「よう」と云った後、平蔵の方を指して「例の東京から来た山口君だ」と云った。 女はまた丁寧に御辞儀をして「こんにちは」と云ってにこりと微笑んだ。平蔵も「こんにちは」と云って御辞儀した。 「とりあえず中へ」と云って蛸屋先生が玄関へ向かう。女と平蔵も後へ続いた。 女と平蔵は座敷に通され、それぞれ座布団を貰ってそこに座った。 「遅れ馳せながら」と云って蛸屋先生は女の隣りに胡座して、 「紹介しよう、我が大学の閨秀学生である蛸崎佐和子君だ。えっと、たしか君より一つ先輩の三回生になるかな――うん。なあに、佐和子君もまた私の門下生が一人だ、蛸に憑かれたる者の一人という訳で、まあ仲良くやってくれ給え。――というのも、佐和子は私の姪でもあるのだ。女と思って侮っていたが、門前の小僧というやつで、小さい頃から蛸ばかり見てきたものだから、――佐和子の父は蛸の卸売り販売をしているのだよ。」と云った。 「けれど、私に一番影響を与えたはのは叔父様です事よ」と佐和子が蛸屋先生を見て云う。 「ありゃ小さい時分に蛸を抱かせたのが仇になったな、それでも私は蛸料理の師匠にでもなればと今でも思っとるんだが。しかしついに蛸学の道に入ってしもうたから、なんとも強情な女で困る」と蛸屋先生が平蔵の方を見て云う。 「まあ」と云って佐和子は頬を膨らませた。 平蔵は二人のやり取りを見て「はあ」と云ってそれ以上云い様も無い。それに気付いた蛸屋先生が今度は平蔵の紹介を始めて、 「彼は今日からうちの書生になる山口平蔵君だ。どうしても蛸の研究がしたいとわざわざ東京から蛸巻下りにやってくる奇警な学生さね。実のところ私はそこが気に入っとるだが、――ちと奇警すぎるところもある様で、家に着くなり、金魚は何処だ金魚は何処だ、と呼ばわるおかしな癖もあるようだが」と云ってにやにや笑った。 「なんです、その金魚は何処だ、というのは?」と佐和子が叔父に尋ねる。 「いや、何、彼も蛸を飼っているそうだ。金魚は餌との事だ」 「いやお恥ずかしい」と平蔵は頭を掻いた。それを見て佐和子はくすくす笑って、 「大事に飼っていらっしゃるんですね、よほど蛸が好きなんでしょう?」と聞いた。 「――はい」と平蔵は答えてまた照れた。 「私も蛸を飼っておりまのよ、女が蛸を飼ってるなんて恥ずかしくありません事?」 「いえ」 「よかったあ」可愛らしい幼い声である。 「東京の女性には、近頃もっとおかしな趣味をもった女性もおります」と平蔵は余計な事を云ってしまう。 そこで蛸屋先生が思い付いた様に立ち上がって、 「今日の夜は山口君の歓迎の会を開こう、場所は『蛸入道』でやろうと思う、あすこの蛸料理は蛸巻一だから。私はこれから用事があって外出せねばならぬのでこれで失礼する。『蛸入道』の場所は佐和子が知ってるから、佐和子と一緒に七時頃に来なさい」と云ったぎり座敷を後にした。 佐和子と平蔵はぽつねんと座敷に残されてしまったまま、お互いきまり悪そうにわざと視線を合わせない様にしている。それから黙ったままの硬直状態が長いこと続いて、堪えきれなくなった佐和子がそろそろ腰を上げて一旦家に帰ろうとした。 平蔵はそこで、それを引きとめるがごとく思いつき、 「蛸に金魚あげるところ見ますか?」と聞いた。 「ええ、是非」と佐和子は微笑んで答えた。
◇
平蔵は書生部屋に置いてある東京から送った荷物の中から水槽と鞄を取り出すと、それらを座敷へと運んだ。それから下女に頼んで水槽に水を入れてもらう。そうして置いて、平蔵は鞄から小石や握り拳ほどの岩などを鞄から取り出す、これは総て水槽に入れてストラクチャとしての役目を果たす。 平蔵はその作業をしながら、それを面白そうに眺めている佐和子に話しかけた、もう先程の緊張は毫も解けてしまっていた、 「佐和子さんの飼ってらっしゃる蛸はどんな蛸なんですか?」 「私のはただの水蛸ですよう」 「へえ、蛸屋先生のは光る蛸だったから、佐和子さんの蛸も珍しい蛸なんじゃないんですか?」 「まあ、あの蛸を御覧になられましたの?叔父様はあの蛸を滅多に人に見せないんですのよ。私だって二、三回しか見た事が無いんですもの」 「へえ、そりゃ嬉しいな」 「あの蛸に比べたら私の蛸なんて、本当にただの凡庸なる蛸になってしまいます。本当に、ただ図体が大きいだけの水蛸ですから」 「――図体がでかいって、どれくらい?」 「三メートル程ですわ」 「で、でかいなあ」 「勝手に大きくなってしまったの、仕様が無いから今は大学の研究室に置いてあります」 「そうですか。――実はね、ふふふ、僕の蛸もちょいと珍しいやつなんですよ」そう云って平蔵は鞄の中から手の平程の小さな壷を取り出した。 「どんな蛸なんです?」 「まあ見てのお楽しみ」と云って平蔵は壷の蓋を開けて、壷を丸ごと水槽の中へちゃぽんと落として、 「多分長旅で大分疲れてるから、ちょっと機嫌が悪いかもしれませんが」と云って水槽の中をじっと眺めた。佐和子も同じ様にじっと見つめる。 すると壷の中からぬるっと拳ぐらいの小さな蛸が現れた。 「可愛らしい蛸だわ、でもこの蛸が珍しいんですの?――ちょっと見た目は普通の蛸に見えますけど」 「うん」と云って平蔵はにやっと笑った。 「いやだあ、早く教えて下さいな」 「待って」と云って平蔵は例の金魚を一匹掬って水槽の中へやる。 金魚は少し弱っているのかふらふらと蛸の目前まで下降していった、かと思うとしゅるっと蛸の触手が金魚を捕え、あっというまに金魚は蛸の中に飲み込まれてしまった。 そして蛸は「もっとくれろ」と云わんばかりに平蔵の顔を見上げた。平蔵もそれに答えてもう一匹、もう一匹、と次々金魚を落として終には10匹全部たいらげてしまった。その間佐和子は平蔵に云われた通りじっと待っている。 そうして蛸は頗る満足した様に、水中を鷹揚に漂いながら、くるりと回転して平蔵の顔をしっかりと見据えると、驚くべき事に、 「いつかお前を食ってやる」と喋った。 佐和子は「きゃあ」と鳴いて跳び上がった。 平蔵は蛸に向かって「剣呑だなあ」と云った。 「こ、これは?」佐和子が狼狽気味に平蔵の袖をつかんで尋ねる。 「うん、喋る蛸ですよ」 「そんなものがこの世にあるのかしら」 「ええ、御存知ありませんか?色々昔の本なんかには伝説として残ってるんですが」 「そんな伝説の本の中の蛸なんて…」 「いや、それが実際居たんですよ。某県の蛸ヶ島という所にね、その昔喋る蛸を祀る信仰がありましてね、今はもうその信仰は無くなってしまってるんですが。その喋る蛸の子孫がまだ残ってたんですよ、それで僕は産まれたての喋る蛸を一つ譲ってもらった訳です。いやあ、しかし御存知なくて当然やも知れません、なんせ蛸ヶ島自体が地図にも載っていない伝説の島だったもんですから、いやはや探すのに苦労しましたよ」 「――はい」と今だ佐和子は怯えている。 「なんでも島じゃこいつ、――この喋る蛸一族を『どどんつ様』と号していたもんですから、僕もこいつの事を『どどんつ様』と呼んでいるですよ」そう云って平蔵は水槽の中に手を入れてどどんつ様を掴んで持ち上げると、どどんつ様をちょこんと手の平に乗せた。 「どうです、さあさあ手乗り蛸でござあい、面白いでしょう?」 それを見て佐和子は吹き出して笑った。 「やってみます?」 「できるかしら?」 「大丈夫」と云って平蔵は佐和子の手をとって、手の平にぼとりと蛸を落とした。 佐和子は「可愛らしい」と云って微笑んだ。そして稚児をあやす様に高い高いをやろうと上に持ち上げた途端に、どどんつ様はぴょんと跳躍して佐和子の顔面に着地してしまった。 「きゃあ」佐和子は咄嗟にどどんつ様を払い落とした。 「馬鹿野郎」平蔵が胴間声を出す。 どどんつ様は床にぼてと音を立ててへばり着いてしまった。 平蔵はすぐに手拭を出して佐和子に渡そうとするが、佐和子は自分のハンケチを取り出して顔を拭いた。仕様が無いので床にへばり着いたどどんつ様を水槽の中へ戻す。 どどんつ様は水槽の中で「がはは」と笑って、 「顔面騎乗してやったぜ」と冷罵して見せた。 平蔵はどどんつ様を睨んでから、佐和子の方を向いて、ハンケチで顔を覆って泣いている佐和子に云った、 「さっきの、馬鹿野郎、というのはこの蛸に云った事で、その、けしてあなたの事では無いので…」 佐和子はこくりと頷く。平蔵は佐和子の姿を見て急に物凄くいとおしく、どうしようもできない胸が張り裂けんばかりの或る衝動にかられた。平蔵の動悸が早くなる。 その時、佐和子がゆっくりとハンケチをとって顔を上げる。佐和子の顔は蛸の粘液と涙とで濡れていて、平蔵は佐和子に見とれてしまう。そして佐和子も潤んだ瞳で平蔵を見つめる。夕暮れの紅い日が細長く影を伸ばし、平蔵と佐和子の周りに幻想を添えて、しばし時が止まる。 「佐和子さん、――あなたのお顔にそっと触れても構いませんか?」 「――ええ、そっとなら」
平蔵は左手で佐和子の頬に優しくそっと触った。一瞬佐和子の皮膚が震えて、――平蔵は手の平に電気が感染するのを感じた。 それを見ていたどどんつ様は、 「お前ら、子供ができたら俺が名付け親になってやるよ」と云って煙草呑む様にして泡を吐いた。 |
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