なんか宮沢賢治好きな人って、マジメというか左翼的というか、詳細に述べるなら「雨ニモ負ケズ」にあるような自己犠牲の精神を推奨する宮沢賢治の生き方に心酔してる40代女性みたいな、「宮沢賢治好き=自己犠牲の精神に恍惚とする人」そういうイメージがある。 これは僕の勝手な偏見かもしれないけども、全くの僕の妄想という訳ではなく、実際にそういう宮沢賢治ファンがたくさん居ると思う。良くも悪くもそういう人達のおかげで、作者である宮沢賢治という人は、ものすごい努力家で朴訥として他人の為に生きる自己犠牲の聖人君子みたいな評価があって、そういうイメージで教科書に載っていて、それがもはや当たり前の事になっていたりする。 ところがである、僕はとても宮沢賢治が大好きなんだけど、全然自己犠牲が素晴らしいとかも思わないし、宮沢賢治が朴訥としたマジメで努力家の聖人君子とも全く思わない、でも大好き。こういう事が僕が生きている世の中では往々にしてある。他に似た例をあげるなら夏目漱石、ってか夏目漱石が千円札の肖像ってあり得へん、ほんと夏目漱石が生きてたらきっと自殺するね、自分の顔が金についてんだもの。それだけ夏目漱石が認められてるという事だろうけど、何もよりによってお札の肖像はないやろと。なんだろう完全に生前の人格が無視されて、夏目漱石というネームバリューと近代文学の貢献っていう大義名分が付いて一人歩きしちゃってる。僕は「坊ちゃん」とか「吾輩は猫である」を読んだ時、この作者の人はなぜ現在お札の肖像なんかになってるんやろう、と疑問におもったけど、誰もそれを疑問に思わないってのが凄いね、ほんと世の中不思議。 と言いつつも、僕が想像する宮沢賢治や夏目漱石が絶対に正しくて世の中が間違ってると思っているわけでは無い。何が嫌かってみんなが良いって言ってるからこの作品は良いだとか、この作者はこういう人だってみんなが言ってるからそうに違いないとか、そういう島国根性? みたいなのが僕は大嫌い。いや大嫌いは言い過ぎ、というかなんか一言「それは違うやろ」と口をはさみたくなる。で、さらに僕の意見に誰かが「それは違うやろ」と口をはさむというのがまあ理想的なのではある。 ここまで書いて書くのを止めた、その一週間後続きを書いている。なので次回に続く。 ――予告―― ・ブログと批評について ・宮沢賢治はイノセンス |
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