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 宮沢賢治と僕
2004年09月20日(月)
 なんか宮沢賢治好きな人って、マジメというか左翼的というか、詳細に述べるなら「雨ニモ負ケズ」にあるような自己犠牲の精神を推奨する宮沢賢治の生き方に心酔してる40代女性みたいな、「宮沢賢治好き=自己犠牲の精神に恍惚とする人」そういうイメージがある。
 これは僕の勝手な偏見かもしれないけども、全くの僕の妄想という訳ではなく、実際にそういう宮沢賢治ファンがたくさん居ると思う。良くも悪くもそういう人達のおかげで、作者である宮沢賢治という人は、ものすごい努力家で朴訥として他人の為に生きる自己犠牲の聖人君子みたいな評価があって、そういうイメージで教科書に載っていて、それがもはや当たり前の事になっていたりする。
 ところがである、僕はとても宮沢賢治が大好きなんだけど、全然自己犠牲が素晴らしいとかも思わないし、宮沢賢治が朴訥としたマジメで努力家の聖人君子とも全く思わない、でも大好き。こういう事が僕が生きている世の中では往々にしてある。他に似た例をあげるなら夏目漱石、ってか夏目漱石が千円札の肖像ってあり得へん、ほんと夏目漱石が生きてたらきっと自殺するね、自分の顔が金についてんだもの。それだけ夏目漱石が認められてるという事だろうけど、何もよりによってお札の肖像はないやろと。なんだろう完全に生前の人格が無視されて、夏目漱石というネームバリューと近代文学の貢献っていう大義名分が付いて一人歩きしちゃってる。僕は「坊ちゃん」とか「吾輩は猫である」を読んだ時、この作者の人はなぜ現在お札の肖像なんかになってるんやろう、と疑問におもったけど、誰もそれを疑問に思わないってのが凄いね、ほんと世の中不思議。
 と言いつつも、僕が想像する宮沢賢治や夏目漱石が絶対に正しくて世の中が間違ってると思っているわけでは無い。何が嫌かってみんなが良いって言ってるからこの作品は良いだとか、この作者はこういう人だってみんなが言ってるからそうに違いないとか、そういう島国根性? みたいなのが僕は大嫌い。いや大嫌いは言い過ぎ、というかなんか一言「それは違うやろ」と口をはさみたくなる。で、さらに僕の意見に誰かが「それは違うやろ」と口をはさむというのがまあ理想的なのではある。
 
 ここまで書いて書くのを止めた、その一週間後続きを書いている。なので次回に続く。
 ――予告――
 ・ブログと批評について
 ・宮沢賢治はイノセンス

 宮沢賢治と僕 2
2004年09月22日(水)
 僕は以前2001年頃にネットで日記を毎日書いてて、その時の文章からの引用をしたい、

>結局僕らは毎日の生活にどこか納得していない、おとなしく受動的でいられない、そういう奴らが個人サイトを立ち上げているんじゃないのか? しかし今になって僕は思う、日記やテキストに僕らの余りある創作意欲を満たしてくれる器は無かったと。テキストや日記に「創作」の土壌は無かった、あるのは「ツッコミ(批評)」と「情緒」だけだ。それはそれで楽しい、平和であるとさえ言える。

○日記の本質はコミュニケーション
○日記とは何か? っていうのが僕は前から疑問に思ってたんですが、ネットが普及する前のいわゆる一人で自分の為に書く日記と同じだと思いました。つまり根本に目を向けて、本来の日記の意味を考えれば良い、となるとこれは自己認識とか精神安定とか趣味とか、そういうもんが本来の日記の意味です、よ。それってつまり自分自身とのコミュニケーションだな、と思いついてウェブ日記の方を見てみてもやっぱり根底にはコミュニケーションがあったので、ああ、そうかと思いました。事実僕自身の日記を見てみても、ちゃんと誰かとコミュニケショーンをとるべく文章になっている、知らぬ間に誰かとコミュってる訳です。

 「あるのは「ツッコミ(批評)」と「情緒」だけだ。」 奇しくも、ツッコミ批評文化はその後今に至るまで大人気で一般的にブログという名前の文化に変化している。情緒というのは詩とか書いてる雰囲気重視のサイトという意味だったんだけど、今も以前も少数派かな。
 日記の本質はコミュニケーション これは最近台頭しているソーシャルネットワーキングサイトやらの概念そのものだと思う。
 これら三つの要素「ツッコミ(批評)」「情緒」「コミュニケーション」というのは、テキストサイト及び個人サイトが、ネット上に存在するための必要不可欠な三大要素と考える。いや別にそんな固い意味でなく、ただこの三つの要素を入れとけば誰か読んでくれそうカナ…という僕の勝手な考え。実際とても人気のある個人サイトというのは、内容の如何に関わらず押しなべてこの三つの要素を持っていると僕個人の見解では思っとるわけだ。
 浅ましい人間である僕は早速それら三つの要素を自分のサイトに取り入れようとしたんだけど、これがことごとく上手くいかない。中でも日記を使ったコミュニケーションが上手くいかない、文中リンク(今現在ならトラックバックか)などを飛ばして仲良くなるというのが何故かずっと一方通行のままで上手くいかなかった。「ツッコミ(批評)」は自分ではなかなか面白い事を書いてるつもりでも、他の人から見たらクソくだらない事に見えるみたいで、例えば今のこれ、前回から書いてるこの文章は「ツッコミ(批評)」に分類されると思うんだけど、まさに他の人から見たらクソくだらない事だと思う。
 残すは「情緒」となったわけだが、理想は三大要素のすべてを併せ持つサイトだが、そのうちどれか一つでも特化していれば実は充分魅力的なサイトではある。では情緒のあるサイトとはなんなのか。
#じょう‐しょ【情緒】ジヤウ‥
#(ジョウチョとも)
##折にふれて起るさまざまの感情。情思。また、そのような感情を誘い起す気分・雰囲気。「―がただよう」「江戸―」
##〔心〕(→)情動じようどうに同じ。

 難しいとこだけどブログサービスを使わないような、いわゆるテキストサイトに「情緒」の要素を持つサイトが多いように思う。「情緒」という意味は「詩的」という意味に替えてみてもいいね、詩だとテキストに拘ってしまうので意味を広げて「情緒」としたんだけども。
  つまり自らのサイトに「情緒」の要素を持たせるためには、詩的日記を書かなければならない、さてここでやっとこのキーワードが出てきた「詩的日記」。
  
 詩的日記とは? 詩と日記の違いとは? 詩人とは何か? 日本語による詩とは? そこでいよいよ宮沢賢治の登場だ、やっと前回と繋がった良かった。
 
 繋がったとこで次回へ続く。
 ――予告――
 ・テキストサイト『かメ人間』は詩的日記
 ・心象スケッチ
 ・宮沢賢治こそがイノセンス

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